気仙という方がいいのかもしれません。
古の時代、北は大船渡から、陸前高田、気仙沼、そして南の本吉までが、陸奥国気仙郡という名で1つの地域として治められていました。
その後、歴史にもまれる中で、最終的には明治政府によって、現在のように岩手県と宮城県に分割されてしまいましたが、 今でもこの地域は「気仙」という名前に強い誇りがあるようです。
津波で家を流された気仙沼大島のみなさんが、口をそろえていたのが「一番大変なのは陸前高田だ。」という言葉。
気仙沼から国道45号線を走り、陸前高田に入っていきます。
気仙川を越え、市街地だったはずの場所に降りたって言葉をなくしました。
どこから何を見たらいいのかわかりません。
街が1つなくなっています。
酔仙酒造の地に向かってみると、今は廃車置き場になっていました。
3月11日は甑倒しの日、それは1年間の苦労が報われる日、そしてその準備の真っ最中に地震が起こったのでした。
壊されたフォークリフトと散乱したP箱が、何かを訴えかけているようです。
気仙中学校、そして高田高校。
地震が来る直前までは、明るいにぎやかな声が響き、生徒が走り回り、当たり前の光景が繰り広げられていた学び舎から、人の気配がなくなっています。
ただ呆然とするだけ。
あるべき声がないということは、こんなにも心を締め付けるものなのでしょうか。
隣の大船渡市まで、少し足を伸ばしてみました。高田の街よりは建物は残っていますが、港は冠水し、建物はどれも破壊されていました。
高田の街に帰ってきました。あらためて街がなくなっている現実を突き付けられます。
かろうじて残っているのは鉄筋の建物だけです。
いるべき場所に、人の姿もなく声も聞こえません。
海岸沿いを走ると、土嚢で海水を防いではいますが、道路の高さと海水面がほとんど変わりません。
破壊された防潮堤の位置から、どれだけの砂浜が海に沈んだのかという現実を、ここでも突き付けられるのです。
第一中学校に向かう道を登っていきました。テレビで何度も流れた映像が撮影された場所です。
真下にあった酔仙酒造が波に呑まれる光景を、何度見たことでしょう。
その場に立つと、表現のできない気持ちがこみあげてきます。
あの日までは、このように高田パイパスを下って来ると、
目の前には懐かしいホッとする光景が広がっていたはずです。
今は現実を見せつけられるだけ。
でも、
覚えているあの光景を取り戻すために、
人はもう動き始めているのです。
津波が来る前は、70000本もの見事な松林があった高田松原で、唯一津波に耐えて残った希望の松。
復興への願いを、一身に引き受けています。
一人ですべてを背負うのはつらいけれど、そっと一緒に寄りそって、話を聞いてくれる人はたくさんいるはず。
何もできなくても、それだけはしていたい。
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